あとがき:解放の思想をめぐる対話

解放の思想といえば、あるマイミク(元あかねスタッフ。そういえば、あかねの存在を知ったのが、そのシンポジウムの二次会のときでした)とおもしろい対話が成立したことがありました。 「日本近代文学とは何だったのかを考える」というタイトルで、<講談社…

宮台真司:近代の最後の砦

シンポジウムの最後に、どういう流れからだったか、丸川哲史が「解放の思想が終わらない限り近代は終わらない」と語り、それに誰もコメントできず、その言葉でシンポジウムが終わった。宮台は意表をつかれた顔をしていて、ペペと神長は誇らしげに笑っていた…

記号としての上野千鶴子:女のダメはおばさんか

もう何年も前のことになる。まだ二十世紀だった頃の話だ。 何かの飲み会の流れで、スナックで男達だけになったときに、何人かが上野千鶴子の悪口で盛り上がった。上野千鶴子という名前が、彼等がステレオタイプに持っているフェミニスト像の一つの記号として…

私小説の発生が日本近代文学の起源となった意味

さて、あるマイミクが、日記に、締め切りを待ってくださいと書いたとたん、「ふぁ、ふぁいと!」とか「待ちません(鬼)」とか様々なコメントが寄せられ、それに対して「コメント欄が飴と鞭と涙で埋まる。そう、それが締め切りというものなのですね」とレス…

大江・藤村における私小説の問題

大江が自分の子供を題材にしたことについては、様々な批評家が批判してきたところですが、「宿命として、社会的な義務として、その特殊な身の上の事情を、文学的な形式にまとめることによって、社会に報告し続けなければならない」と言えば聞こえはいいです…

日本近代文学の起源としての私小説

マイミクの日記に触発されて、日本近代文学の起源を改めて考える機会がありました。マイミクが大江健三郎の『個人的な体験』を何人もの高名な批評家が批判してきたことについての考察を日記で述べていたのに触発されて、次のような書き込みをしました。

あとがき:日本近代における女性

先日、あかねで渋谷知美のトークショーがあったのだけれども、渋谷知美の著書「日本の童貞」で、例えば、ダメ連の言説への批判で、女性の話だとすぐ女の敵は女、と言うのに、男の敵は男とは言わない、人間の性と言う、という言葉等が印象に残った。女の敵は…

文学とは二番以下は不要な激しいものであるべきだ

江國の出世作である、恋人がいるゲイの夫とアル中の妻の物語「きらきらひかる」に江國が「シンプルな恋愛小説です」とコメントしたのは、韜晦ではなかったろう。現代の日本でシンプルな恋愛を描くのにゲイの夫とアル中の妻という筋立てが必要だったのだ。 例…

江國香織の『赤い長靴』を読む

マイミクに薦められて、江國香織の『赤い長靴』を読んだ。『赤い長靴』は、結婚十年目のごくありふれた夫婦の物語だ。 『日和子が「ほんとうのこと」に取りつかれた最初の日々。 あのころ、日和子は逍三の顔を見れば「ほんとうのこと」をぶつけ、また、聞き…

街・その他の詩篇

街 なんという風がふきあれているのだ、 この街には この街には・・・ ま白くビルディングがある 大気のみを内にたたえて 永遠の墓標のようにそびえている そのあいまにも 時と生命の香り失せた大気が流れてくる 木造の廃屋とビルディングとのあいまを 時と…

初期詩篇

こないだ、レオ丸君に問われるままに、私の文学創作の過程を振り返ったのですが、最初のまとまった創作は、小学生の頃、オリエンとホッホーという小説でした。よくある話ですが、オリエンとホッホーのうちのどちらかがバカでどちらかが利口なんですね。バカ…

発見の会「革命的浪漫主義」

二宮金次郎の金ぴかの銅像から物語が始まる。農村の子供達が二宮金次郎を讃える歌を歌っている。それは、幕末の農村から昭和の農村にまで続いていた歌声で、それが日本における革命的浪漫主義の揺籃だった。 発見の会は64年に結成された。40年にわたって演劇…

イマージュオペラ>>トリプティック「地図の作成」「ベンツがほしい」「lovelorn longlost lugubru Blooloohoom」

イマージュオペラの舞踏を観るのは三回目だが、今回はメンバーによる三つの小作品集だった。これまでは、脇川海里の演出で、野沢英代と綾原江里は、一人で振り付けるのは今回が初めてとのこと。 野沢英代の「地図の作成」は、これまでは振り付けられて踊って…

向井千惠「青天」ゼロ次元・加藤好弘「いなばの白うさぎ」

向井千惠とダンサーとのコラボレーションで、向井の即興の胡弓演奏とダンスを堪能できた。向井は 「即興表現は、今その時間、空間そのもののダイレクトな表現である。普通の演劇のように筋書きがあり、演出家の指図のもとに役者が演じるというシステムの対極…

Power Doll Engine「東京物語」

劇はSFの未来シーンから始まる。観客席に座っていた、未来人の衣装に身を包んだ女性が通信機に手を当てて応答し、これから始まりますという言葉で舞台が始まる。 獄舎に繋がれている二人の人間。ゲイが、革命家に、小津安二郎の映画東京物語について語って…

テラ・アーツ・ファクトリー「フローター」「イグアナの娘、たち」

テラ・アーツ・ファクトリーでは、公演に踏み切る前段階の試演を繰り返し行い、観客から意見を求め、その中から浮かび上がったものを公演として公開する形式をとっている。今回の二作品は、一年程前に私は試演を観たのだが、それからさらに練り上げられて、…

(-2)LDK 「root in work」

作・演出の岸井大輔は、役者と一緒に町を歩くお散歩演劇POTALIVEの主宰だ。岸井は「僕には町の建物も群集も演劇に見えます。行動と対立、つまりドラマがあるからです」と語っている。この考えは、今回の舞台にも貫かれていた。 劇場に入ってみると、客席がな…

OMー2「作品No.4」ーリビングー

若手劇団自動焦点主宰の佐々木治己のテキストを下敷きに、OMー2の真壁茂夫の構成・演出で演じるということで、どういう劇になるのかと思っていたが、二つの劇団のコラボレーションは、相乗効果をあげていた。 開幕の前から、舞台の隅に若い女性が蝋燭の乗った…

M.S.A.Collection2006を観て   

この数年、演劇をよく観に行っているのですが、きっかけになったのが、die pratzeであったハイナーミラープロジェクトでした。そこで、初めて、様々な演劇をまとめて観る経験をして、演劇の世界は歴史の流れのなかにあるのを知りました。 文学や思想の世界は…

演劇批評の試み

die pratzeという劇場での演劇フェスティバルM.S.A.Collection2006の批評を、劇場が発行しているフリーペーパーに書く条件で招待券をくれるとマイミクに聞いて、やってみようと思った。チケット代が惜しいわけではないが、演劇を観て思ったこと感じたことを…

世界経済の中心からの距離

レオ丸君が言っているのは、日本近代においてドイツ哲学とロシア文学が最高の権威だったのは、世界経済の中心からの距離が等しかったからだ、という話ですね。 そこから派生して、ドイツのようなナチズムにも、ロシアのようなスターリニズムにもなる可能性が…

どうしてそんなにたくさんのことを知ってるんですか

今から100年程前、フランスはパリでの社交の集いで、アナトール・フランスに「どうしてそんなにたくさんのことを知ってるんですか」と尋ねた者がいた。それは誰でしょう?というクイズをあかねで出したことがあった。 そのときあかねにはモアヌさんやレオ丸…

藤村・漱石はいかにして国民的作家となったか

以前、文芸評論家絓秀実が、国民作家として島崎藤村と田山花袋を挙げ、日露戦争後の時代に、藤村の部落差別の「破戒」と花袋の女性差別の「布団」が書かれたとレクチャーで語った。私は、その話を受けて、日本近代の始まりに、部落差別と女性差別が、国民を…

日本近代文学を荷った階級

中村真一郎が「幕末、日本の文化は爛熟していた。漢詩の世界には、同時代19世紀後半フランス象徴派の詩のレベルの成熟があり、都会の知識人は恋愛や性の自由を謳歌していた。明治になって田舎者の文学者、島崎藤村だの田山花袋だのが、都会的な成熟した自由…

日本近代文学が生まれえた根拠

日本文化の歴史において、外来の強力な文化の流入による最初の大きな断絶が7世紀にあり、その衝撃が万葉集から源氏物語に至る日本文学の最初の豊穣をもたらした。 二番目の大きな断絶は明治維新を契機とした西欧文明の流入なのだけれど、近代日本の知識人が…

日本近代文学の起源としての性

フロイトが人間の芸術や学問の活動の原動力を、生の欲求ではなくなぜ性欲としたのかわかるようでよくわからなかったのだが、考えてみると人間の本能のなかで性欲は未知のものを求めさせるただ一つの欲求だったのだ。人類には性欲がインプットされていたため…

日本近代文学の起源

半年程前、年少の友人に誘われて、ミクシィを始め、日本近代文学についてとか演劇と小説の違いについてとか愛についてとか、かねて考えていたことを折にふれて書いてきました。 マイミクの日記に、性について書いてあったのに触発されて、日本近代文学の起源…