あとがき:日本近代における女性

 先日、あかねで渋谷知美トークショーがあったのだけれども、渋谷知美の著書「日本の童貞」で、例えば、ダメ連の言説への批判で、女性の話だとすぐ女の敵は女、と言うのに、男の敵は男とは言わない、人間の性と言う、という言葉等が印象に残った。女の敵は女とか、女の友情は脆いとかいう言説が支配的なのは、あくまでも日本近代の空間においてのことだった。
 柄谷行人が、対談で、女性は自分の置かれている危険を知るために日本文学を読まないといけないと説教していたけれども、これは、自分の交友圏に入りたい女性は、日本近代文学の常識は心得ていないと怪我するよ、という親切な忠告だと理解したほうがいい。柄谷は、自分の周りの狭い世界が普遍性を持つと本気で信じているのだけれども。
 さて、ここまでは導入部で、江國香織の「落下する夕方」や「ホリー・ガーデン」等を主な素材として、女性間の友情の描き方を考察し、日本近代文学の歴史において江國香織の占める位置を述べたかったのですが、導入に時間を取られてしまいました。本題に入ると、これまでの部分より長くなりそうで、皆さんも退屈でしょうし、私は今日の夕方にはニューヨークに出発しなければならず、その準備もありますので、とても残念ですが、ここでいったん筆を置くことにします。無事であれば、2月28日に日本に帰ってくる予定ですので、その後で本論に入ることにしましょう。


と私は書いているけれども、未だに本論は書かれていない。それ以前に書くべきことがいくつもあり、当分書かれることはないだろう。それは、この文章を書いた時点の私が想像もできなかったことだけれども、この文章を読んだマイミクの多くは、その時点で既に予想していたことであったにちがいない。
常識的に考えるなら、ここで言われている本論が書かれるよりは、私の命が尽きるときが早いだろう。
本論がないなら、ここで導入部と称されているものが一つの本論でしかありえないわけで、最後の雑駁な文章は、あとがきということになった次第です。