あとがき:解放の思想をめぐる対話

 解放の思想といえば、あるマイミク(元あかねスタッフ。そういえば、あかねの存在を知ったのが、そのシンポジウムの二次会のときでした)とおもしろい対話が成立したことがありました。
 「日本近代文学とは何だったのかを考える」というタイトルで、

講談社現代新書石川忠司著「現代小説のレッスン」を読んでいて、中村光夫の「近代文学が人間解放の文学だとしますと、人間の解放が敗戦の結果、文学とは縁のないところで出来上がってしまった。それは完全にできたとは云えないけれども、少なくとも明治・大正の文学者が意識したところよりもかえって徹底した形で実現してしまったと云えるかと思います。だから、近代文学は、知らない間にその使命を果してしまった」といった言説が、戦後文学に関するなかなかすごい認識として紹介されているのを眼にして、日本近代文学とはいったい何だったのかを考えることになったのでした。
 そんな、文学が人間を解放してやるなんて、そんなの嘘っぱちに決まってるじゃないですか。怪しげな宗教家が、解放してやると偉そうな顔をして、金だけふんだくり、さらに深い抑圧の底に沈める、本人は解放された、ありがたいと思っている。その程度の解放する力なら文学にもあるのかもしれませんが。ただ、この中村光夫の言説が、一つの時代の日本の知識人の常識の表現であるというのも確かなことなのです。>

というような文章をミクシィに書いたところ、そのマイミクが長文のコメントを書いてくれたので、次のようにレスしました。


>「自分(たち)を批判するアイツラはおかしい」‥‥なんて反応はまだマシなほうであって「皮肉や悪意をいう人たちは何かに囚われたかわいそうな人たちなんだ」なんてズレが出てくる。善意に見えて、実は検討違いも甚だしい発想(感想)が。

<ありがちなことですね。>

>そこに「怪しげな宗教家」がいれば、事は簡単だ。「あの囚われたかわいそうな人たちを救うためにも、あなた(あるいは我々)はもっと努力せねばならない」と導けるのだから。

<そういう安定した世界のなかにいる人は幸せなんでしょうが。あやしげな宗教だと相手にしなければいいんだけど、文学や思想の分野で、もっともらしい顔をしてあやしげな宗教と同じことをやるのを僕は問題と感じたわけなんです。>

>それはなくとも、ズレは、もっと言えばたくみに組み上げられたウソは、時に人を傷つける。
 皮肉や悪意よりも、深く。
僕はそういうズレを見てきました。僕が生きてきた、たいしたことない時間のなかでも、そういうのはありました。そして僕もきっと、この「ズレ」の再生産に関わっているのだろうと、30代半ばになった現在、ひしひしと感じています。ズレ。断絶(特に世代間の)

<ズレを生産する危険性に常に自覚的であるのは大切だと思います。ズレを隠蔽しようとするのはまだしも、ズレを指摘する人間を「アイツラはおかしい」と思い、排除したいと思う人も多いわけで、あなたのような良識ある人の存在は大きいわけです。>