大江・藤村における私小説の問題


 大江が自分の子供を題材にしたことについては、様々な批評家が批判してきたところですが、「宿命として、社会的な義務として、その特殊な身の上の事情を、文学的な形式にまとめることによって、社会に報告し続けなければならない」と言えば聞こえはいいですが、自分の子供を利用して名誉と金を得ているとか、小説の材料ができて良かった、ラッキーだったと思っているんじゃないかとか思われているんじゃないかという辺りが大江としては気にかかるところだったでしょう。大江の私小説的な作品で、母親や光の弟にあたる息子に、息子を材料に小説を書いていることを苛烈に批判させています。それは、大江の内面の声でもあったでしょう。
 これは、日本近代文学の起源からあった問題で、藤村が「破戒」を書いたときの様々な識者の批判を平野謙が纏めていました。平野謙は「破戒」の内容は非難しませんでしたが、藤村が「破戒」を書くために子供達を殺したことを批判する(古くは志賀直哉が激しく非難したのですが)論文で文芸批評家として出発しました。また「新生」を書くことで姪を犠牲にした藤村を糾弾しました。戦後、同じ観点から小林多喜二の小説「党生活者」を批判し、それに中野重治が激しく反駁し、有名な政治と文学論争になります。おもしろいのは、平野謙の批判者であり、『個人的な体験』以降の大江の批判者でもあった江藤淳中野重治を高く評価したことです。
 前に日記に書きましたが、大江は自分で編集した小説集に、「われらの時代」「青年の汚名」「日常生活の冒険」といった長編小説を載せず、それに福田和也が嫌味を言っています。一つ言えるのは、大江は初期の作品群を書き尽くした後、満足のいく作品を書けないで苦しんでいたということです。『個人的な体験』を書いたということが大江にとっていかに大きいことであったかがわかります。
 次に大江がスランプに陥ったときに、「レインツリー」ものに始まる私小説的な短編小説群を書き始めることになり、もう小説を書かないと宣言した後で、私小説的な長編小説群を書き始めることになります。江藤淳は『個人的な体験』以降の大江について「どうして問題を書くんだろう」と言っていたのですが、現在までの大江の総体を見てどう思うか聞いてみたい気がします。
 トルーマン・カポーティーがノンフィクションノベル「冷血」を書いたときに、江藤淳は、現代アメリカの作家がノンフィクションノベルという新しい分野に向かわざるをえなかったことの意味を考察していました。戦後日本文学は、私小説の伝統を否定し、小説は何を書いてもかまわないんだという方向に進化してきたのですが、だったらノンフィクションノベルという分野に向かうのは退化なのでしょうか。大江が私小説的作品群に向かったのは退化だったのでしょうか。そういう文脈での大江の私小説的作品への批判はよく見られるのですが。カポーティーの「冷血」を評価した江藤淳私小説的作品群に向かった大江には文学に対する共通のスタンスがあると見えるのですが、その点について江藤淳がどう思うか聞いてみたい気がするのです。
 平野謙は、藤村が「破戒」のような作品を書き続けていれば、日本近代文学が違ったものになっていたろうと書いていますが、観念論的倒錯です。藤村は「家」等の私小説的作品を書くことで日本近代文学における権威となったのであり、だからこそ「破戒」が日本近代文学の始まりに位置することになったのです。
 日常をダラダラと書いただけのものが私小説と呼ばれ優れた文学作品とみなされるあり方は文学の堕落と言えるでしょうが、「家」等の傑作とみなされている私小説の私は既に社会化されている私です。藤村は「破戒」においてよりも「家」において、日本社会の総体を表現しえたように見えます。日本社会の歴史と現在をより深く描こうとすると「家」に向かわざるをえなかったのであり、そもそも、藤村を取り巻く家にそれだけの歴史と深さとがなかったならば、「破戒」レベルの近代的小説さえ藤村は書くことができなかったでしょう。