記号としての上野千鶴子:女のダメはおばさんか

 もう何年も前のことになる。まだ二十世紀だった頃の話だ。
 何かの飲み会の流れで、スナックで男達だけになったときに、何人かが上野千鶴子の悪口で盛り上がった。上野千鶴子という名前が、彼等がステレオタイプに持っているフェミニスト像の一つの記号として機能していた。それは、その何ヶ月か前に私が眼にした上野千鶴子の姿とはかけ離れたものだった。
 「ダメ連宣言」という本の出版を記念したシンポジウムが開かれたときのことで、出席者は上野千鶴子宮台真司丸川哲史ペペ長谷川神長恒一だった。五人とも生身の姿を見るのは初めてだった。丸川はまだ本を一冊も出版しておらず、大学教師でもなく、ただのフリーターだった。ペペと神長とも、言葉を交わしたのはそのときが初めてだった。そのとき、男はダメが許されて楽だが女性は厳しいという話になったときに、上野千鶴子
「男のダメに相当するものが、女性にもある。それはおばさん。おばさんになると楽よう」
と本当に楽そうに語った。女のダメがおばさんとは言いえて妙だと感心すると同時に、どこか違うんじゃないかという違和感もあった。その何ヶ月か後に、あかねでペペと会ったときに、
「女のダメがおばさんというのは少し違うんじゃないか」
と漠然と感じていた違和感を口にしたら、ペペが
「どこが違う」
と切り返してきたので、私は漠然と感じていたことの言語化を迫られることになった。詰められて、咄嗟に言葉にしたのは、
「だって違うじゃない。男だったら、俺はダメだと言って女に迫るじゃない。ダメだと思ってもいないのに、女を口説くために俺はダメだと口にする奴だっている。でも、おばさんというのは、女を降りた、男女関係にはならないということなんで、全然違うじゃない」
というようなことだったが、話しているうちに、本当に全然違うじゃないか、と泣きたくなった。ペペは個人ではなくて、現代日本の進歩的知識人のごく普通の常識を口にしたにすぎなかった。
 シンポジウム会場から二次会会場の居酒屋に移動する途中、若い女性達の話に耳を傾けている上野千鶴子は、本当に物分りのいい親戚のおばさんという感じだった。その上野千鶴子の印象を語ったならば、スナックで悪口に高じている男達の認識はすぐに改まるのはわかっていた。ひどい悪口だったが、その程度の根のない話で、おそらく上野千鶴子の本を読んだことのある者は一人もいなかっただろう。だけれども話す気がしなかったのは、それで上野千鶴子に対する彼等の悪意は胡散霧消しても、上野千鶴子という記号が表象していたものに対する悪意は変わらないからだった。
 二次会に多くの人がつめかけたのに気をよくしたのか、出版元の作品社の人が「飲み代を持ちます」と突如宣言し、会場は盛り上がった。私は、あの編集者は気のよさそうな人だが、いったいこの居酒屋の飲み代を払える程の利益があがるのだろうかと心配になった。