日本近代文学の起源としての性


 フロイトが人間の芸術や学問の活動の原動力を、生の欲求ではなくなぜ性欲としたのかわかるようでよくわからなかったのだが、考えてみると人間の本能のなかで性欲は未知のものを求めさせるただ一つの欲求だったのだ。人類には性欲がインプットされていたために、共同体を超えて交通し、共同体を超える経済関係を作り上げ、共同体を超えるものを認識する主体となるよう運命づけられていたのだ。
 性は重要だが、性を核にして作られる関係性が重要なので、性自体に意味があるわけではない。言葉を成す一つ一つの音を分析しても無意味なのと同じだ。
 愛に本質があるとするなら愛には本質がないということだったんだ。
 西欧近代は女性差別ユダヤ差別の時代だった。イタリア、フランス、スペイン、イギリス、ドイツ、ロシアは、その近代文学の始まりに男女間の恋愛を扱う作品を持つことになった。男女間の恋愛に普遍的価値があるからではなくて、西欧近代が女性差別の時代であったために、男女間の恋愛にその本質が現れることになったのだ。ダンテがラテン語ではなくて俗語で詩を書いたのは女性に読んでもらおうと思ったからだった。西欧近代に国民的作家になろうと思ってなった者は一人もいない。確かにセルバンテスゲーテは国民的作家になりたいと思って当時の文学の王道だった劇作に精進したけれども、彼等には国民的作家になりたいという気持ちに反するものがあったために国民的作家となったのだ。西欧近代文学はダンテに始まってプルーストの「失われた時を求めて」に終わる。個体発生は種の系統発生をなぞる。プルーストは男女間の愛が発生して消え去るまでを経験した。その後で、第一次世界大戦を、西欧近代の終わりを見た。「失われた時を求めて」は、愛が発生して消え去るまでの、西欧近代が成立して解体するまでの物語だ。
 以上のようなことです。日本近代文学についての考察も、こういった考察と地続きにあります。例えば、次のようなものです。
 日本近代は女性差別と部落差別の時代だった。藤村は破戒で部落差別を、漱石虞美人草女性差別を表現することで、国民的作家への道を歩み始めることになる。封建的差別というけれども、藤村や漱石は江戸期封建社会とは異質の、近代日本に特有の差別を表現することで近代文学の作家たりえた。
 何年も前、一人の女性を愛していて、なぜか毎日死にたいという思いがわいてきた頃、カバンにはいつも中上健次の「地の果て至上のとき」を入れていた。死にたい思いに襲われたとき、「地の果て至上のとき」の文章を読むことだけが支えになった。中上健次は死ぬ前に「もう一度秋幸を書きたい」と言っていたそうだが、僕は恋愛をする秋幸を読みたかったと思った。あるとき「地の果て至上のとき」は実は愛の物語だったのに気づいた。秋幸は父だの故郷だのを求めたのではなかった。秋幸には愛する紀子を求める気持ちだけがあって、そこからすべての物語が始まっていた。そしてこれは部落差別の物語でもあったのに気づいた。「岬」や「枯木灘」と違って、秋幸が殺人を犯した後であるために、一見犯罪者差別としか見えないのだが、現代社会における部落差別のよりリアルな表現になっているのだった。カミュの「異邦人」が普遍的なのは、誰だって自分が殺人者となる可能性を否定できないからだ。ユダヤ人や部落民の物語であれば人事だと思っていられる人間であっても。
 日本近代文学は、自己を部落民に仮託することで自己表現を始めた作家に始まり、部落差別が、部落民に限らない、この日本で共同体を超えるものを求める者共通の運命であることを表現した作品に終わった、と僕は思った。