M.S.A.Collection2006を観て   

 この数年、演劇をよく観に行っているのですが、きっかけになったのが、die pratzeであったハイナーミラープロジェクトでした。そこで、初めて、様々な演劇をまとめて観る経験をして、演劇の世界は歴史の流れのなかにあるのを知りました。
 文学や思想の世界は、一人で勝手に書くこともできますから、日本にはまともな歴史なんか存在しなかったということですむのですが、演劇の世界は集団的なもので、確実に歴史の連続性のうえにあると知ったのです。
 以下、M.S.A.Collection2006を観て感じたこと、思ったことを書いていきます。

 舞踏「部屋」を演じたNUDEの目黒大路は、舞踏の核心とは何か問われて
「わかりません。ただ、飾らない体がそこにあればいいと思っています。例えば、ピカソゲルニカのようでありたいと思っています。うおっ!て思うじゃないですか。ストーリーとかではなく、ガン!とくるものがあるじゃないですか、そういうものでありたいですね」
と語っています。
 今回のM.S.A.Collection2006は舞踏と演劇が半分ずつでしたが、この目黒大路の言葉は、演劇を含めて、M.S.A.Collection2006全体を表現する言葉となっていると思いました。
 M.S.A.Collection2006の舞踏には、いずれも演劇の要素がありましたし、演劇には、舞踏におけるように、言葉で理解される次元を超えようとする意思がありました。 
 目黒大路は、作品を作るうえでイメージの源となった作品はあるかと問われて、戦後日本の現代詩における金字塔である吉岡実の「僧侶」を挙げています。「部屋」には、僧侶姿の若い三人の男が、テーブルを囲んで会議をする場面があります。「僧侶」における最も印象的な場面です。
 マキガミックテアトリックの「ザーウミの海で」は、ロシアの詩人ブレーニコフの詩を基にした音楽劇です。ブレーニコフの美しい詩句や奇怪な宇宙語が音楽に乗って語られます。
 この「ザーウミの海で」にも、三人の僧侶が会議をする場面がありました。現代詩の言葉は観念的とも言われていますが、その言葉が、舞踏や演劇の作品を作るイメージの源となっているのです。
 詩句を音楽に乗せて語る試みをおもしろいと思いました。現代詩の世界は、袋小路に陥っており、書く人間も読む人間も年々減少しています。しかし、詩の朗読は、近年盛んになってきています。現代詩朗読の会では、様々なパフォーマンスが試みられています。現代詩は、肉体と肉声を持つことで、演劇化することで、現代に生き延びているのです。
 小説は映画と、詩は演劇と親縁性があるという説があります。管理社会のなかで窒息しそうな人間は、この映像の時代にあって、生の肉体と声の演劇を求めているのです。
 「そこにからだがある」をモットーとするダンスの犬ALL IS FULLの「裂けていく月 vol.4」は、暗い背景に、白い長い糸に絡まれる肉体の動きが印象的でした。若い男女五人の肉体の絡み合う動きからドラマが作り出されていました。
 境野ひろみの「雑草花子」は、一人の女性が、ラデッキー行進曲に合わせて誇らかに華やかに登場する所から始まり、一転して、暗い死の場面に移り、生と死のドラマを作り出していました。
 hmpの「In der Strafkolonie」は、フランツ・カフカの「流刑地にて」が原作です。「流刑地にて」の処刑機械が印象的でしたが、「流刑地にて」にとどまらない、フランツ・カフカの全作品に満ちている雰囲気が、言葉を用いずに表現されていました。
 カフカの時代のビジネスマンの格好をして、夢の中の世界のように歩く男達。「変身」の主人公やカフカ自身を思わせます。そして、「審判」の主人公を思わせる、両脇から警吏に抱えられ、恐怖の表情を浮かべて連れ去られる若い男。カフカが延々と言葉を費やすことで現前させえた世界が、言葉を用いないで構築されていました。「In der Strafkolonie」は、集団の肉体の動きによるドラマであり、一つの舞踏だったとも言えるでしょう。
 小説は既に死んでいるとも言われていますが、演劇を小説と同じに論ずることはできません。あらゆる言葉がステレオタイプとなり、生命を失ったとしても、それで、演劇の生命が尽きたと言うことはできません。
 では何があるのかと言えば、現前する肉体で、それこそが演劇の核心だったのだと思いました。小説が死んだとしても、人間が生きているかぎり、少なくとも演劇は生きていなければならないし、確かに生きているのです。
 以下、いくつかの演目を取り上げて、少し詳しく論じてみたいと思います。