OMー2「作品No.4」ーリビングー


 若手劇団自動焦点主宰の佐々木治己のテキストを下敷きに、OMー2の真壁茂夫の構成・演出で演じるということで、どういう劇になるのかと思っていたが、二つの劇団のコラボレーションは、相乗効果をあげていた。
 開幕の前から、舞台の隅に若い女性が蝋燭の乗った皿をいじっている。その皿を落とした音が響き渡るところから劇が始まる。
 シルクハットを被り、カバンを提げた二人の紳士が歩いてくる。カフカの小説の場面を思わせる。大田省吾がベケットを下敷きに書いた劇に同じような場面があったと、ある批評家が語っていた。
 役者は無言で、カセットから録音された言葉が聞こえる。対話はない。延々とモノローグが続く。
 我々は支配されているという意味の言説が延々と語られる。現代社会が不条理だという言説さえも、不条理な社会の一部となっている現代の日本そのままに。
 途中で、福知山線の事故の日のテレビ報道の話が延々と語られる。それと、学校で虫のことでいじめられるエピソードの二つが印象に残る。抽象的な言説が続くなかの具体的な話だったから。
 最後に、劇場の受付の電話が鳴り始める。しばらく鳴った後で、ようやく受話器が取られ「もしもし」という声が聞こえるが応答はない。遠くに「もしもし、もしもし」という声のみが聞こえるなかで舞台は終わる。
 自動焦点の佐々木の演劇を初めて観たのは、ハイナーミラープロジェクトでだった。それは注目を集めた演劇フェスティバルで、様々な批評がなされたけれども、印象に残っているのは、佐々木についてある演劇批評家が「バカが演劇をやっちゃいけない」と語っていたことだ。
 カセットから録音された言葉のみが聞こえる手法は、前回の自動焦点の劇で用いられていた。それは、客が十人といないなかで、2時間半に渡って演じられた壮大な実験作だった。佐々木の演劇は、既に、バカでなければ踏み込めない地点に到達してしまっていたのかもしれない。
 佐々木は、今度の公演のために二万字以上書き、OM-2の真壁達との協議で十分の一に削られたという。本当は最初に「もしかしたら今日は宇宙の誕生日かもしれない」というセリフがあったそうだ。
 学校での虫によるいじめのエピソードだけが肉感的で異質だったけれど、この部分はOM-2の役者の方が書いたとのこと。OM-2との共同作業のなかで、演劇とはこういうものだと思ったと佐々木は語っていた。他者達との対話のなかで、草稿が練り上げられていく過程が、同時に、佐々木が演劇人として生成する過程だった。
 演劇の力は、一つには、言葉が常に他者の眼にさらされ、集団のなかで言葉が練られていくことにあると思う。そこに、現代日本における、小説に対する演劇の優位がある。