日本近代文学を荷った階級

中村真一郎が「幕末、日本の文化は爛熟していた。漢詩の世界には、同時代19世紀後半フランス象徴派の詩のレベルの成熟があり、都会の知識人は恋愛や性の自由を謳歌していた。明治になって田舎者の文学者、島崎藤村だの田山花袋だのが、都会的な成熟した自由な文化を理解せず、性のタブーや封建的な道徳を持ち込んだ」というようなことを言っている。幕末のほうが性愛が自由だったというのは、その通りだったかもしれないと思う。プルーストの「失われた時を求めて」の話者は、タレーランの「大革命前を知らない者は人生の真の歓びを知らない」という言葉を引いた。崩壊寸前の旧体制の下にこそ限りない自由がありえたというのはわかる。藤村や花袋への批判は、乱暴な論のようだけれど、この中村真一郎の言説には、日本近代文学の本質をついた所がある。文学とは、何よりもまず野蛮な力だった。
 (日本近代文学の起源に位置する)藤村や花袋の(生まれ育った)田舎とは、自然のみしかない田舎ではない。既に産業が成熟し貨幣経済の浸透した田舎だった。日本全国に浸透した資本主義経済の下で地方に蓄積された経済力によって、明治維新が実現した。日本近代文学は、その経済を担った階層の自己表現として現れた。明治維新に政治権力として現れた力が、数十年の成熟の後に一つの思想として現れた。
 日本には西欧と違って階級が無かったと言われることがあるが、それは、日本では西欧におけるほど徹底して歴史が検証されることがなかったというだけのことではないのか。歴史は見方による。日本には西欧のような階級はなかったと言うこともできる。が、全国規模で長年機能した資本主義経済の結果として日本全域に張り巡らされた一つの階層があって、日本近代における主だった政治家や文学者のほとんどはその階層から生まれたと言うこともできるのだ。