テラ・アーツ・ファクトリー「フローター」「イグアナの娘、たち」


 テラ・アーツ・ファクトリーでは、公演に踏み切る前段階の試演を繰り返し行い、観客から意見を求め、その中から浮かび上がったものを公演として公開する形式をとっている。今回の二作品は、一年程前に私は試演を観たのだが、それからさらに練り上げられて、今回ようやく初演された。
 「フローター」は、桑原健の一人芝居で、様々な古新聞のゴミの山のなかに一人の男がいる。男は、手当たり次第に、古新聞の記事を読み上げ始める。現代日本の軽薄な世相を写す言葉のなかに、アイヌ文化振興法の記事の言葉が混じる。近代日本の裂け目であるアイヌについての言説が、男を神話的空間に導き、男は、古代ギリシア悲劇「コロノスのオイディプス」の言葉を語り始める。
 現代の大衆消費文化の言葉と、古代ギリシア悲劇の言葉とが交錯する。現代の日本社会のなかに、ギリシア悲劇の構造が浮かび上がる。
 「イグアナの娘、たち」は、十一人の若い娘達による集団創作劇だ。
 中央の椅子に、連合赤軍事件の犠牲者だろう、袋に閉じ込められた女性が座っている。彼女は目隠しをされ、ただ聞いている。その周りで、熾烈ないじめにさらされている少女達の声が響く。現代日本の凄惨な日常、若い女性の心の傷が語られていく。それは、連合赤軍事件の犠牲となる女性がいることで、聞く者がいることで、初めて語られえた言葉だった。
 現代を生きる様々な女性達の声に、連合赤軍指導者の永田洋子の声が混じる。現在の日本の雑多な悲惨な現実と交錯して演じられることで、連合赤軍事件が、ギリシア悲劇のような神話的空間のなかに浮かびあがる。
 今に続く日本社会の構造のなかに連合赤軍事件が捉えられていて、おもしろいと思った。演出の林英樹は、ネット上に掲示板を作り、今を生きる女性達の赤裸々な声を集め、11人の出演者と対話するなかでテキストを作っていった。
 林は、前から連合赤軍事件を演劇にしたいと思っていたけど難しいと思っていたのが、今ようやく演劇化できると思ったそうだ。それは、現在の日本に生きる若者達にとって、連合赤軍事件が何らかの意味を持つと知り、彼等との対話のなかで演劇化が可能となったということだったろう。それは、若者に媚びるということではないし、まして若者に教えを垂れるということでもない。今、若い世代において意味を持つことこそが、事件の本質だったのだ。
 歴史は二度繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は笑劇としてという言葉があるけれども、それは、繰り返されることで、一度目の本質が浮かび上がる、一度目が悲劇として現れるということだった。
 悲劇は、現代に生きることで初めて悲劇たりえる。そして我々は、人間の総体を捉える形式である悲劇を必要としている。