イマージュオペラ>>トリプティック「地図の作成」「ベンツがほしい」「lovelorn longlost lugubru Blooloohoom」


 イマージュオペラの舞踏を観るのは三回目だが、今回はメンバーによる三つの小作品集だった。これまでは、脇川海里の演出で、野沢英代と綾原江里は、一人で振り付けるのは今回が初めてとのこと。
 野沢英代の「地図の作成」は、これまでは振り付けられて踊っていたのを、今回は拙くとも自分で地図を作って、自ら振付けて踊ろうという試みだった。モチーフは「落ちる」ということだったのだが、落ちるというからには、必ず止まるということがあるはずで、今回、止まるということをもっと考えるべきだったと野沢さんは語っていた。 
 綾原江里演出で女性二人が踊る「ベンツが欲しい」は、綾原がダンサーと本音を語り合うなかで構成を考えていった。踊りの前に、二人が「即興が好きなんだけどやらせてもらえなかった」とか「ダンスなんて金にならないものをいつまでもやってられない」とか「ベンツが欲しい」とか本音の独白をするのがおもしろかった。
 脇川海里の「lovelorn longlost lugubru Blooloohoom」は、ジョイスのテキストに触発されて作られた舞踏だった。前回はパゾリーニのテキストに触発された舞踏だったが、文学作品に触発されて舞踏を創る試みをおもしろいと思っている。文学作品を読んだ感動を表現した文章は世間に溢れているけれども、言葉で表現しえない感動を与えるのが文学なので、肉体で表現しようとする姿勢は真っ当だと思う。
 公演の後、観に来た演劇人や演劇研究者と、深夜まで活発な議論があった。なかでも、即興という概念を巡る議論がおもしろかった。ある若手演劇研究家は、舞踏においては、即興ではなく構成が重要だと主張し、脇川は、即興においても構成があるんだと主張していた。
 ある演劇人は、脇川のダンスは、即興なのに、残像が見えないと批判した。即興というのは、瞬間瞬間に一つの動きを取るということだけれど、それは瞬間瞬間に他の動きを捨てるということだ。即興のダンスでは、捨てた動きの残像が無数にあるというのだ。
 即興というのは、本来観客の反応に反応して創られていくんだけど、そんなこと実際には不可能だという意見もあった。
 そこで語られていた即興という概念は、まさに向井千惠がめざしてきたものだった。脇川のダンスは客席から閉じた世界を作っていたが、彼は即興において構成が重要だという考えで、即興という概念の違いがあるので、議論は噛み合わない所があった。
 ただ、脇川のダンスは、前回のほうが開かれていたという印象があった。モノプレイよりも、イマージュオペラとしての集団創作の方向に可能性を感じている。一人で踊るあり方は限界点にあって、言葉を発する方向や他者達と関わる方向へと開けていかざるをえないのではないかと思った。