江國香織の『赤い長靴』を読む

マイミクに薦められて、江國香織の『赤い長靴』を読んだ。『赤い長靴』は、結婚十年目のごくありふれた夫婦の物語だ。
『日和子が「ほんとうのこと」に取りつかれた最初の日々。
 あのころ、日和子は逍三の顔を見れば「ほんとうのこと」をぶつけ、また、聞きたがった。
「どうしてあなたは言葉が通じないの」
公園を歩いているあいだじゅう、日和子は怒っていた。
「あなたはここにいるのに、いないみたいよ」
言葉は次々に口をついてでた。
「そんなのはさびしいし、私、あなたといるとどんどんさびしくなっていく。さびしいことはやめたいの」
逍三は、うん、とか、ああ、とかこたえた。
「逍ちゃんだってさびしいでしょう?私たち、二人でいると二人ともさびしくなるのよ」
「うん」
「ほんとうのこと」が危険なのは、きっかけが何であれ、最後には必ずそこに辿り着くからだ。結論は、つねに明白だ。私たち、一緒にいない方がいいのよ。
 あと二秒遅ければ、日和子はそれを口にだしていた。
「青木さんって」
 そのときいきなり逍三が言い、目の前の家を指さした。
「青木なのに、白い家なんだね」
一瞬のまのあと、日和子は笑いだしてしまった。
「なんてばかばかしいことを言うの」
笑いの発作はなかなか治まらなかった。
「一体どうすればそんなことを思いつけるの」
「あなた破天荒だわ」』
 連作短編という手法は、平凡な夫婦の間の危機的な瞬間や豊かな時を捉えるのに適した形式だった。
 『赤い長靴』は、第一作を2001年一月号に短編として発表し、五月に二作目を、そして2003年七月号から一年にわたって連載して完結した連作短編集だ。
 第一作と同じ時期に江國は短編集「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」に纏められる短編を書きついでいる。例えば、そのなかの短編「うしなう」では、日和子と同じような平凡な妻が話者なのだが、夫が仕事でいない日中、何人かの仲の良い主婦と食事に出かけ、様々なお喋りに興じた後で、
『これは誰にも言ったことがないのだが、私は自分がもう夫に愛されていないと感じる。そして私自身ももう夫を愛していないのではないかと率直なところ思う。私たちは結婚して九年になり、なにもかもまあ上手くいっている。たぶんどちらもいまの生活に満足しているのだ。』
と思う。
 この時期、現代日本のありふれた日常における愛の姿を江國はいくつもの短編に描いた。そのなかで日和子と逍三とが江國の脳裏に残り、何年もかけて発酵したということだったろう。同じような平凡な日常のなかにあって、日和子と逍三には、日常を突き破る生命の輝きがあった。