文学とは二番以下は不要な激しいものであるべきだ

 
 江國の出世作である、恋人がいるゲイの夫とアル中の妻の物語「きらきらひかる」に江國が「シンプルな恋愛小説です」とコメントしたのは、韜晦ではなかったろう。現代の日本でシンプルな恋愛を描くのにゲイの夫とアル中の妻という筋立てが必要だったのだ。
 例えば、谷崎潤一郎河野多恵子は変態を描くことで小説を書き始めることができた。しかし、小説空間が確立すると、変態は余計な要素であったように見える。それは、小説空間を切り開くのに不可欠な要素だったんだけれども。
 谷崎潤一郎なら平凡な三姉妹の「細雪」が、河野多恵子なら平凡な商社マン夫妻の「秘事」が最高傑作だと私は思うのだが、同じような意味で『赤い長靴』は優れた作品だ。
 河野多恵子が、文学とは何かを論じた文章で、ある高名な文学者が、一言で表現できる作家が残ると語ったと書いている。津島祐子なら「シングルマザー」、谷崎潤一郎なら「女の足」。
 また、高橋源一郎が最近の文芸誌で、詩人の荒川洋二の言葉を引いて、文学とは最先端、一番のものだけが問題で、二番以下は不要な激しいものであるべきだと書いていた。
 河野と高橋とが言っているのは同じことだ。
 河野も高橋も敬愛する文学者の言葉を引用しているのだけれども、その言葉が、何か文学の本質を現していると思えたのだ。
 一番だけが文学として残るというのは、競争社会だということではない。それは、フローベールが「文体がすべてだ」と言い、「ある事柄を表現するには、ただ一つの言い方しかない」と言ったのと同じことを言っている。
 高橋の言葉はこう言い直したほうがいいかもしれない。誰も表現したことのないものを表現しようとする企てが文学なのだと。
 ある事柄を表現する様々な文章があっていいわけだけど、ある事柄を表す文学表現は一つしかありえない。ある文学作品を模倣して文学を創作しようとすることほど、文学から遠い営為はない。
 江國香織を「OLを描いた小説家」と評した言葉が印象に残っている。OL、つまり、現代日本社会の関係性のなかに置かれた女性を描いた小説家ということだ。確かに江國香織は、これまで描かれたことのなかったものを描こうとしてきた小説家だった。