Power Doll Engine「東京物語」


 劇はSFの未来シーンから始まる。観客席に座っていた、未来人の衣装に身を包んだ女性が通信機に手を当てて応答し、これから始まりますという言葉で舞台が始まる。
 獄舎に繋がれている二人の人間。ゲイが、革命家に、小津安二郎の映画東京物語について語っている。
 革命家は、ゲバラの言葉を、真理の言葉としていくつも引用する。近未来の日本は、革命家ゲバラの言葉がリアリティを持つ圧政下にある社会だとわかる。
 途中の、ここから穴を掘ったら東京物語の舞台の日本だというセリフで、ああ、これは南米の話かとわかり、そこでようやく、以前に映画を観たことのある蜘蛛女のキスの話だと気づいた。
 蜘蛛女のキスはアルゼンチンの作家マヌエル・ブイグの小説で、ブエノスアイレス刑務所の中での、テロリストとホモセクシュアルの男との愛を描いた小説だった。獄中で、ホモセクシュアルの男がテロリストに、様々な映画のストーリーを物語る。
 最後に、革命家がゲイを射殺して劇は終わる。物語が終わった後の舞台に、映画「東京物語」のセリフが流れている。
 「東京物語」は、ゲイの報われない純愛の物語だ。革命家の物語でもある。恋と革命というと、宝塚のようだけれども、それが泥臭い日常のなかで語られる。共に古臭いものである純愛と革命が、日常に息づくものとしてあった。
 映画「東京物語」は、今の日本ではリアリティを持ち得ない素朴な人情話だ。それは、日本において純愛や革命という観念がリアリティを持ちえた時代でもあった。
 管理社会化が進むなかで、原始のままの肉体は、純愛や革命が息づいていた時代を懐古している。最初と最後に映画「東京物語」のセリフが流れ、機械化管理社会化が進んだ近未来の短いシーンがあることで、遠い異国のドラマが、現代日本におけるドラマとして甦っている。

テラ・アーツ・ファクトリー「フローター」「イグアナの娘、たち」


 テラ・アーツ・ファクトリーでは、公演に踏み切る前段階の試演を繰り返し行い、観客から意見を求め、その中から浮かび上がったものを公演として公開する形式をとっている。今回の二作品は、一年程前に私は試演を観たのだが、それからさらに練り上げられて、今回ようやく初演された。
 「フローター」は、桑原健の一人芝居で、様々な古新聞のゴミの山のなかに一人の男がいる。男は、手当たり次第に、古新聞の記事を読み上げ始める。現代日本の軽薄な世相を写す言葉のなかに、アイヌ文化振興法の記事の言葉が混じる。近代日本の裂け目であるアイヌについての言説が、男を神話的空間に導き、男は、古代ギリシア悲劇「コロノスのオイディプス」の言葉を語り始める。
 現代の大衆消費文化の言葉と、古代ギリシア悲劇の言葉とが交錯する。現代の日本社会のなかに、ギリシア悲劇の構造が浮かび上がる。
 「イグアナの娘、たち」は、十一人の若い娘達による集団創作劇だ。
 中央の椅子に、連合赤軍事件の犠牲者だろう、袋に閉じ込められた女性が座っている。彼女は目隠しをされ、ただ聞いている。その周りで、熾烈ないじめにさらされている少女達の声が響く。現代日本の凄惨な日常、若い女性の心の傷が語られていく。それは、連合赤軍事件の犠牲となる女性がいることで、聞く者がいることで、初めて語られえた言葉だった。
 現代を生きる様々な女性達の声に、連合赤軍指導者の永田洋子の声が混じる。現在の日本の雑多な悲惨な現実と交錯して演じられることで、連合赤軍事件が、ギリシア悲劇のような神話的空間のなかに浮かびあがる。
 今に続く日本社会の構造のなかに連合赤軍事件が捉えられていて、おもしろいと思った。演出の林英樹は、ネット上に掲示板を作り、今を生きる女性達の赤裸々な声を集め、11人の出演者と対話するなかでテキストを作っていった。
 林は、前から連合赤軍事件を演劇にしたいと思っていたけど難しいと思っていたのが、今ようやく演劇化できると思ったそうだ。それは、現在の日本に生きる若者達にとって、連合赤軍事件が何らかの意味を持つと知り、彼等との対話のなかで演劇化が可能となったということだったろう。それは、若者に媚びるということではないし、まして若者に教えを垂れるということでもない。今、若い世代において意味を持つことこそが、事件の本質だったのだ。
 歴史は二度繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は笑劇としてという言葉があるけれども、それは、繰り返されることで、一度目の本質が浮かび上がる、一度目が悲劇として現れるということだった。
 悲劇は、現代に生きることで初めて悲劇たりえる。そして我々は、人間の総体を捉える形式である悲劇を必要としている。

(-2)LDK 「root in work」

 作・演出の岸井大輔は、役者と一緒に町を歩くお散歩演劇POTALIVEの主宰だ。岸井は「僕には町の建物も群集も演劇に見えます。行動と対立、つまりドラマがあるからです」と語っている。この考えは、今回の舞台にも貫かれていた。
 劇場に入ってみると、客席がない。観客が自由に歩き回る形になっていて、役者と観客、見るものと見られるものとの間に境界が無いのだった。入り口で渡されたチラシを手に持っているかどうかで観客が識別できるだけだった。 
 しばらくすると、水のなかのものが底に沈殿するように、観客は壁際にいた。我々に内面化された秩序の勝利かと思えるが、場内のいくつかの場所で演劇が進行しているために、やはりまた、観客は動き始めることになる。
 駅にあるような伝言板が隅っこにあって、時刻と伝達事項を白墨で書いては、また消して書く人がいる。
 「夏は海から来るんだ」という詩的な言葉を繰り返し朗誦する女性がいる。
 真ん中に調理器具があり、途中で料理する人もいて、目玉焼きの焼ける香ばしい香りがしたりする。
 観客がドラマの主役となることもある。白粉を塗りたくった若い女性が中年男性の観客と腕を組み、ときおり男性のほうを向いてたおやかな笑みを浮かべながら静々と歩いていく。女性に微笑まれると男性も引きつったような笑みを浮かべる。突如、女性が驚愕の表情を浮かべ「お父さん」と叫んで、走り去っていく。遠くから恐怖に震える瞳で男性を見ている。男性は強張った笑みを浮かべている。何も知らない観客であることで生まれえたドラマだった。
 帰りがけ、劇場の出口で二人のおばさんが会話していた。
「わけがわからない。でも、何か筋はあったのよね」
「知らない」
 このセリフで完結した一つの演劇があったと私は思った。このセリフを役者が言ったら陳腐だったろう。観客が参加しなければ成立しえない演劇が確かにあるのだ。

OMー2「作品No.4」ーリビングー


 若手劇団自動焦点主宰の佐々木治己のテキストを下敷きに、OMー2の真壁茂夫の構成・演出で演じるということで、どういう劇になるのかと思っていたが、二つの劇団のコラボレーションは、相乗効果をあげていた。
 開幕の前から、舞台の隅に若い女性が蝋燭の乗った皿をいじっている。その皿を落とした音が響き渡るところから劇が始まる。
 シルクハットを被り、カバンを提げた二人の紳士が歩いてくる。カフカの小説の場面を思わせる。大田省吾がベケットを下敷きに書いた劇に同じような場面があったと、ある批評家が語っていた。
 役者は無言で、カセットから録音された言葉が聞こえる。対話はない。延々とモノローグが続く。
 我々は支配されているという意味の言説が延々と語られる。現代社会が不条理だという言説さえも、不条理な社会の一部となっている現代の日本そのままに。
 途中で、福知山線の事故の日のテレビ報道の話が延々と語られる。それと、学校で虫のことでいじめられるエピソードの二つが印象に残る。抽象的な言説が続くなかの具体的な話だったから。
 最後に、劇場の受付の電話が鳴り始める。しばらく鳴った後で、ようやく受話器が取られ「もしもし」という声が聞こえるが応答はない。遠くに「もしもし、もしもし」という声のみが聞こえるなかで舞台は終わる。
 自動焦点の佐々木の演劇を初めて観たのは、ハイナーミラープロジェクトでだった。それは注目を集めた演劇フェスティバルで、様々な批評がなされたけれども、印象に残っているのは、佐々木についてある演劇批評家が「バカが演劇をやっちゃいけない」と語っていたことだ。
 カセットから録音された言葉のみが聞こえる手法は、前回の自動焦点の劇で用いられていた。それは、客が十人といないなかで、2時間半に渡って演じられた壮大な実験作だった。佐々木の演劇は、既に、バカでなければ踏み込めない地点に到達してしまっていたのかもしれない。
 佐々木は、今度の公演のために二万字以上書き、OM-2の真壁達との協議で十分の一に削られたという。本当は最初に「もしかしたら今日は宇宙の誕生日かもしれない」というセリフがあったそうだ。
 学校での虫によるいじめのエピソードだけが肉感的で異質だったけれど、この部分はOM-2の役者の方が書いたとのこと。OM-2との共同作業のなかで、演劇とはこういうものだと思ったと佐々木は語っていた。他者達との対話のなかで、草稿が練り上げられていく過程が、同時に、佐々木が演劇人として生成する過程だった。
 演劇の力は、一つには、言葉が常に他者の眼にさらされ、集団のなかで言葉が練られていくことにあると思う。そこに、現代日本における、小説に対する演劇の優位がある。

M.S.A.Collection2006を観て   

 この数年、演劇をよく観に行っているのですが、きっかけになったのが、die pratzeであったハイナーミラープロジェクトでした。そこで、初めて、様々な演劇をまとめて観る経験をして、演劇の世界は歴史の流れのなかにあるのを知りました。
 文学や思想の世界は、一人で勝手に書くこともできますから、日本にはまともな歴史なんか存在しなかったということですむのですが、演劇の世界は集団的なもので、確実に歴史の連続性のうえにあると知ったのです。
 以下、M.S.A.Collection2006を観て感じたこと、思ったことを書いていきます。

 舞踏「部屋」を演じたNUDEの目黒大路は、舞踏の核心とは何か問われて
「わかりません。ただ、飾らない体がそこにあればいいと思っています。例えば、ピカソゲルニカのようでありたいと思っています。うおっ!て思うじゃないですか。ストーリーとかではなく、ガン!とくるものがあるじゃないですか、そういうものでありたいですね」
と語っています。
 今回のM.S.A.Collection2006は舞踏と演劇が半分ずつでしたが、この目黒大路の言葉は、演劇を含めて、M.S.A.Collection2006全体を表現する言葉となっていると思いました。
 M.S.A.Collection2006の舞踏には、いずれも演劇の要素がありましたし、演劇には、舞踏におけるように、言葉で理解される次元を超えようとする意思がありました。 
 目黒大路は、作品を作るうえでイメージの源となった作品はあるかと問われて、戦後日本の現代詩における金字塔である吉岡実の「僧侶」を挙げています。「部屋」には、僧侶姿の若い三人の男が、テーブルを囲んで会議をする場面があります。「僧侶」における最も印象的な場面です。
 マキガミックテアトリックの「ザーウミの海で」は、ロシアの詩人ブレーニコフの詩を基にした音楽劇です。ブレーニコフの美しい詩句や奇怪な宇宙語が音楽に乗って語られます。
 この「ザーウミの海で」にも、三人の僧侶が会議をする場面がありました。現代詩の言葉は観念的とも言われていますが、その言葉が、舞踏や演劇の作品を作るイメージの源となっているのです。
 詩句を音楽に乗せて語る試みをおもしろいと思いました。現代詩の世界は、袋小路に陥っており、書く人間も読む人間も年々減少しています。しかし、詩の朗読は、近年盛んになってきています。現代詩朗読の会では、様々なパフォーマンスが試みられています。現代詩は、肉体と肉声を持つことで、演劇化することで、現代に生き延びているのです。
 小説は映画と、詩は演劇と親縁性があるという説があります。管理社会のなかで窒息しそうな人間は、この映像の時代にあって、生の肉体と声の演劇を求めているのです。
 「そこにからだがある」をモットーとするダンスの犬ALL IS FULLの「裂けていく月 vol.4」は、暗い背景に、白い長い糸に絡まれる肉体の動きが印象的でした。若い男女五人の肉体の絡み合う動きからドラマが作り出されていました。
 境野ひろみの「雑草花子」は、一人の女性が、ラデッキー行進曲に合わせて誇らかに華やかに登場する所から始まり、一転して、暗い死の場面に移り、生と死のドラマを作り出していました。
 hmpの「In der Strafkolonie」は、フランツ・カフカの「流刑地にて」が原作です。「流刑地にて」の処刑機械が印象的でしたが、「流刑地にて」にとどまらない、フランツ・カフカの全作品に満ちている雰囲気が、言葉を用いずに表現されていました。
 カフカの時代のビジネスマンの格好をして、夢の中の世界のように歩く男達。「変身」の主人公やカフカ自身を思わせます。そして、「審判」の主人公を思わせる、両脇から警吏に抱えられ、恐怖の表情を浮かべて連れ去られる若い男。カフカが延々と言葉を費やすことで現前させえた世界が、言葉を用いないで構築されていました。「In der Strafkolonie」は、集団の肉体の動きによるドラマであり、一つの舞踏だったとも言えるでしょう。
 小説は既に死んでいるとも言われていますが、演劇を小説と同じに論ずることはできません。あらゆる言葉がステレオタイプとなり、生命を失ったとしても、それで、演劇の生命が尽きたと言うことはできません。
 では何があるのかと言えば、現前する肉体で、それこそが演劇の核心だったのだと思いました。小説が死んだとしても、人間が生きているかぎり、少なくとも演劇は生きていなければならないし、確かに生きているのです。
 以下、いくつかの演目を取り上げて、少し詳しく論じてみたいと思います。

演劇批評の試み

 die pratzeという劇場での演劇フェスティバルM.S.A.Collection2006の批評を、劇場が発行しているフリーペーパーに書く条件で招待券をくれるとマイミクに聞いて、やってみようと思った。チケット代が惜しいわけではないが、演劇を観て思ったこと感じたことを書くのを自分に課すのはおもしろいかと思ったのだ。
 僕の生も、あとどれだけ続くのかわからないし、書く機会があるときに書いておこうということだった。それが、マイミクが思っている演劇批評の範疇に入るものかどうかわからないわけだけれど。
 で、次のような文章が、フリーペーパーに載った。

世界経済の中心からの距離

 レオ丸君が言っているのは、日本近代においてドイツ哲学とロシア文学が最高の権威だったのは、世界経済の中心からの距離が等しかったからだ、という話ですね。
 そこから派生して、ドイツのようなナチズムにも、ロシアのようなスターリニズムにもなる可能性がありながらならなかった国日本、という話がありましたし、
 ドイツにおいて、カントに始まり、ヘーゲルを経てマルクスに解体する過程と、ロシアにおいて、プーシキンに始まり、トルストイドストエフスキーを経て、チェーホフロシア革命へと解体する過程が、日本近代における神話としてあった、という話がありました。
 最近、レオ丸君の導きで、様々な現代日本演劇を鑑賞して、西欧近代の始まりに現れたシェークスピアと西欧近代の終わりに現れたチェーホフの戯曲の様々な演出で、日本近代の一切を表現できるんじゃないか、ということも思ったわけです。
 そのうち考えをまとめようと思っていたのですが、こういったことは様々に考えが膨らんでいくもので、なかなか固定して表現されるに至りません。その点、このミクシィという場は良い機会なわけで、そのうちまとめて書いてみようと思います。